昭和41年07月15日 夜の御理解
外でボールなげをして遊んでおりますから、早よ止めてから風呂にどんは入りなさいと申しましたら、やめて風呂場に手を洗いにいきました。風呂に入りなさいと。勉強せんならんけん。みてごらんあんただん遊んでばっかりおるか、その勉強の時間がなくなろうもん。はよ風呂に入らなきゃいけん。しかしお父さんよく学べよく遊べちいうちゃろうがち(笑)今までよく遊んだ。良く遊んだわけなんです。だからこれから勉強をするち言う訳です。だから風呂には入らんち言う訳ですね。
もう本当にうがった理屈ですけれども、まぁうがったようであって実際はそう言う様な事が信心の上にもありはせんだろうか。そんなに思うですね。自分の心に言い訳をしたり、又は人に言い訳をしたり、本当にどう言う様な面から言うても神様の前にも勿論言い訳はできん。言い訳は成り立たんとこういいなさっておる。本当にそうです。そこを一つおかげを頂いてから、どうぞその言い訳をせんですむ、ただそう言う様な場合に自分の心の中に今朝から頂く御理解のように。
信心の値打ちというのは、日々的にね、その問題に取り組んだ時に、私共がそれを信心で受けていこうとする、元気な心またはそれを受ける、和らぎ喜ぶ心がどれだけ自分の心の中に、成長しておるかという事を、心の中に確かめさせてもろうていけばです、よいのですけれども、それこそ言う事は今言うように、子供からでもちょっとぎゃふんと言われるように、言い訳ができるですけれども、それでは私は信心が進んでいかん。それに似たような事が私共の信心の日常の中にありはせんだろうか。
第一自分に言い訳はしない。又は人に言い訳をしない。又は人に言い訳をする。神様にでも昨夜はこうじゃったからお参りをしようと思うたらこうじゃったと言った様な言い訳はいらん。言い訳はいらん。今日久留米の佐田さんがお参りして見えてからです、今姉さんが見えておるらしい。まぁいろんな意味で大変難儀な所を通っておりますから、まぁお導きをする、信心の話をされる、ね、そうするとその例えば信心を頂いて、薬を頂かないと言った様な事に非常に抵抗を感じる。
だからお話を聞けば椛目の先生という人はまぁ良か先生のごたる。私もそれは良いと思うけれども、あんたがたがそういうことを言うから、まあ嫌だと言った様な意味の事を、なんか用があってから日田の里のほうに電話をかけられる。そしてお爺さんが最近、入院をしておられますから、入院して大変おかげを受けておられる事やら、または最近は子供達がああいうような交通事故にあったけれども。
本当に奇跡的なおかげを頂いたことやらを、日田のお母さんにいうた事やらを、日田のお母さんがいうた事が、もう本当に心外でもう本当に昔の私なら電話ででも喧嘩をしたい事ある、気持ちがしたとこういうわけなんです。それこそもう今にも椛目におかげを頂いておりながら、何て言う事を言い出しただろうかと、けれどもそのその時に佐田さんが思われたと。本当にそうだと。
信心をさせて頂いて、本当にめぐりのお取り払いを頂かせて貰い、本気になって信心をさせてもらい、なるほど魂の助かりだけではなくて、同時になるほどあんたげん信心するけん、病気いっちょせんのと、成程家は繁盛していくばっかりのと言った様な、おかげを頂かなければ、今親だからと言い訳をしたところで分かる、分からせるかもしれんけれども、信心に相手の心になるわけでもなからなければ、自分ばそれで、信心の成長にもなるわけではない。と言う様なお届けをされて。
あんたも今朝からのお届けの様に、その事問題をいわば真ん丸い心で受けたようなものじゃった様ですねというて話した事ですけれども、そう言う様な場合にです、ね、えてしてその信心の理屈を一通り言わなければ気が済まん。いわゆる言い訳をするのです。それではね成程合点はさせてもそれではおかげにならん。これは佐田さんのお届けの中に先日夫婦でお爺さんの所にお見舞いにお見えになられた。最近はもうお母さんと皆んなあの、ご主人奥さん三人でお神様をお祭りする事をもう、念願にしておられる。
それはお爺さんだけがその、お祭りをする事がいかんと言われんけれども、そのまぁいうなら家の中で一番その、お座敷ならお座敷でさあぁと、お祭りをすると言った様な事にあんまり喜ばれない。ね、そしてこの頃その先日参ってきても、今度主人とお見舞いに参りますから、この機会に一つおじいちゃんにお祭りすることを私、いおうと思います、こげなおかげを頂いておるけんと言う様な事を言いよりましたから、まぁそういうてから・・?なさいますな。
ちょいともう抵抗なしにお爺さんが聞きなさるような時期があるですよと、もう本当にただあなた方が有難くなっていきよる風を見ていきよりなさる、それでいいです。さぁもうというて、お祭りをしなくてもいいのですから、私いってましたけれども、昨日じゃないその昨日一昨日でしょう、ここに出られてからおじさんに見舞われた。最近もう本当に家の中に信心によっておかげを受けておること、おじいちゃんから孫達二人がおかげを頂いたこと、もう以来お母さんが本当に変っておいでられる事。
そしたらもう本当に感動してですね、もう涙を流してからその、恵美子さんの話を聞いてから喜ばれたと。だから私は思いましたと、本当に今お祭りをするせんのそんな段じゃなかと。お爺さんがこの信心をまあこうして涙を流して、分かっておられるねとこう言うてその、思うてその事にはふれませんでしたち言うてから、はぁそれはそげんでよかった、それでも結構だもん。
成程信心ちゃ有難いなぁ、長年の非常にね、まぁ仏教(帰依者、先祖代代ですからその、生きた働きという物を感じないというてもなんとはなしに、仏教の教えをというものを形の上にでは頂きこんであるわけです。本当に生きたそのおじいさんの助かりというものは、全然みられない。それでなら片一方、おばあちゃんの方になると、最近熱心に信心をされるなら、されるだけいきいきとした、助かりという物を感じていかれよる。また私共がそれをみとって感じる。
そういうのがです、そういうおかげ話をさせて頂いたら、もう大変喜ばれてから、主人と二人こうしてお参りにいって、本当に有難いお見舞いが出来ましたというて、今日はお届けがあっておりますもん。ね。本当に信心をしておって、どうして何時までも非難やら受けるとです。ね、何も分からん物がどげな事でも言う。そしてそれに言い訳をする。もう良いわけをするのだけではなか、今日恵美子さんが感じられたように、佐田の奥さんが感じられたように。
ほんなこてそうだと、本当に井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、ね、本当に清水になるまでのおかげを頂かせてもろうて、汲んでも汲んでも尽きぬ、清水の頂けれるようなおかげを本当に本気になって、まあ、頂く事以外にないんだと、というて、そこにその、主人とも話あってその事に精進をせねばならんと言う事を感じましたと言った様な事をお届けしておられます。
確かにそうだと思いますね。言い訳をしたり、自分に言い訳をしたりするから、いつまでたってもおかげが受けられん。自分の心の中にねその事をです、やはり(?)自分に皮肉に言われたように思うてから腹立ってから言い訳しよる。言い訳して長年信心の稽古をしておるから、そのあんただんは分からんばってん、そのめぐりのお取り払い頂けれるでんと言った様な、例えば言い方も出来れるのだけれども。それではなら本人自身を実感として分かっていない、また相手に言うても分かる筈がない。
そうだもう私がおかげを頂く意外にないのだと。ね、とそれをそういう風にそれを真ん丸心で受けられれると言う事が私はそこんところに焦点をおいて、信心をしていかなければならないと思うですね。栄四郎じゃないですけれども、風呂に入れといったって風呂にも入らん。あんまり、遊びにほうけておるものだから、まして宿題せんならんもんじゃから、もう宿題の時間になったから、さぁ(?)お風呂に入れ、今から宿題をせんならんけんお風呂に入らんと。あんまり遊びよるけんくさいち。
お父さんがちゃんというちゃろうかと。よく学びよく遊べと、もう私としたら一言もないのです。ね、けれどもそれではなら、本当の事ではないようにですね。やはり良く学び良く勉強し、ご飯を頂く時間もなからなければならん、お風呂に入る時間もなからなければならんのです。ですからその辺の所がです、私共信心でそう言う様な事はなかろうかと反省させて頂かなければならないと思うですね。私はこの例えば神様の前に言い訳は通わんと通らんと、ね。
お参りをしようと思いよりましたばってん、どうじゃったと言う様な言い訳は通らんと言う訳ではなくてです、自分の心にも、これは人にもです事信心の事になったら、もう赤面弁慶になって弁明すること、も言い訳をする事はいらん、ほんとうにそうどこじゃない私がおかげを頂いてさえすればよいという、その一段と踏ん切りつかん所を踏ん切りつけて、私は一段信心を進めていく以外には私はないと思うですね。
どうぞ。